羽島用水ものがたり


【第一話】 【第二話】 【第三話】 【第四話】 【第五話】 【第六話】 【最終話】


【第一話】
  時は江戸初期。このころの木曽川の堤防は、徳川御三家の尾張藩を守るため、美濃側(今の岐阜県)が尾張側(今の愛知県)より一m(三尺)低くつくられていました。
  そのため、木曽川が洪水になるたびに、洪水は美濃側へ流れ込みました。美濃の人々はいつも洪水の恐怖に震えながら暮らすことになります。洪水からいかに生活を守るかに知恵を絞る毎日で、農業のことなど二の次でした。
  これではいけないと思い、美濃の人々は立ち上がりました。



【第二話】
  美濃の人々は、輪中堤を他の地区より高くして村を守ったのです。こうして江戸時代の三百年間は、洪水からいかに村を守るかに全力をあげ、木曽川の水を農業用水に使うなど考えもつかなかったようです。
  明治時代になり、木曽川等の堤防改修工事が行われ、人々は洪水の心配をしなくてもよくなりました。そして、農業用水についてじっくり考える時間ができました。その結果、農民たちは、あることに気づいたのです。



【第三話】
  なぜ、今まで気づかなかったのだろう。木曽川の豊富な水は、洪水の恐怖を与えるだけでなく、米や野菜を作る喜びも与えることに気づいたのです。
  そして、大正十二年八月、農民たちは昔からの輪中根性を捨て、みんなで協力して農業用水を引くことを決めました。
  その後、用水路を造るという一大事業を計画しました。工事中はいろんな問題がでたものの、昭和七年三月に工事が完成しました。
  長い間、洪水に悩まされ、恐怖に震えていた木曽川の水が、恵みの水となって農民に喜びを与えることになりました。農民が夢にまで見た羽島用水が誕生したのです。
  それからしばらくは安定して農業用水が使えることになり、喜ぶ農民の姿があちこちで見られました。ところが・・・。



【第四話】
  しかし、喜びもつかの間、木曽川の上流には発電のためダムがたくさん造られました。ダムは不規則に水を放流するので、下流の農民にとって、安定して農業用水をとることができなくなったのです。農民がダムに対して苦情を言った結果、ダムの管理者は農民に迷惑をかけないと約束したのです。しかし、この頃の日本は、戦争をしている時期です。戦争には電気が必要なため、結果的にダムの管理者は農民との約束を守れませんでした。安定して水がとれない農民は困り果てていました。



【第五話】
  ようやく戦争が終わり、世の中は復興に向けて、様々な整備がされるようになりました。
  国は、安定して水がとれなくなった羽島用水を木曽川の対岸にある宮田用水、木津用水(いずれも愛知県)と統合して犬山地点から水をとる計画をたてました。
  この計画を進めるため、岐阜県、愛知県の農民たちは協力しました。
  様々な苦難を乗り越え、昭和三十七年に犬山頭首工、昭和四十一年に羽島用水路が完成しました。
  農民の夢と希望をのせた用水路の完成です。



【第六話】
  羽島用水路が完成して木曽川の水は羽島用水地域を大きな恵みを与え続けることになりました。
  時が経ち、時代は平成です。戦争以後、社会の発展に合わせるように農地は減って、家が建ち並ぶようになってきました。農地が宅地に替わることで羽島用水が得たものは・・・、そうです、多くの家から出される台所や洗濯の汚い水です。これらの汚水は、羽島用水に流れ込み、用水を汚くする原因となりました。農家の人たちは何とかしなければいけないと思い、再び立ち上がることになります。



【最終話】
  農業用水に生活汚水が流れ込む。ふと木曽川の対岸を見れば、かつてともに用水路を建設した宮田用水、木津用水でも同じことが起こっていました。「何とかしなければ・・・。」羽島用水の農家の人たちは、再び宮田用水、木津用水と力を合わせて、平成十年に用水路の改修事業を始めました。それが新濃尾農地防災事業です。この事業で羽島用水路は、開水路からパイプに変わり家庭からの排水が入らないように工夫しました。これでより快適な農業ができる・・・羽島用水地域の農家に再び光が訪れようとしています。
  江戸の時代から多くの苦難に会いながらも、不屈の精神であきらめずにがんばってきた羽島用水地域の農家に、この新濃尾農地防災事業は大きな恵みを与えることとなるでしょう。

リフレッシュ濃尾用水より
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